その声でおやすみと言って

 


有り得ない。 まさか私がこんな感情を抱いて眠りに就けなくなるなんて、よもやこんな日がやって来ようとは…。






「はぁ」






陳腐な溜め息は何度経由しただろう。


彼は今頃、会社の事務員である女性達を送り出す為の送別会に出席している。


まさか彼の性格で嘘を吐くとは思えないし、宴もたけなわ、 大凡二次会の幕が上がっているのだろうと予想してみる。





ちらり、と。 部屋の隅で蛍光色に縁取られた目覚まし時計に視線を這わすと、現在時刻が夜中の二時であることを知る。






「(眠い…超眠いのに、寝れない…)」






アラサーと呼ばれる年齢に差し掛かるまで男の気配がまるでしない とか、女子力が無さすぎて干からびてるとか。


周りからは散々な言われようだった私なのだけれど、今付き合っている彼の事になると。






「……、」






ほら、これ。摩訶不思議な涙まで流れ出てくる始末である。


自分でも悲しいのか怒っているのかさっぱりだ。







高校の時に流行っていたベタな少女漫画がある。


当時少年漫画推しだった私は一応といった姿勢で手に取ったは良いけれど、やはりどの点にも共感は出来なくて。





一方もしも今の私が同じタイトルに目を通すならば、 ほぼ間違いなく涙腺が崩壊すると思う。


"恋"という感情は厄介だ。


自分ではコントロールの効かない部分にまで喜怒哀楽の激情が流れ込み、無意味に不安な気持ちを煽る。





恋愛物のドラマや少女漫画。 客観的な目で読み進めるならば間違いなく的確なアドバイスが出来ると思うのに、いざ自分の身に置き換えるとそうもいかなくなる。


"彼" を目の当たりにすると自分でも判断の付かない感情ばかりがぐるぐると渦巻き、上手く言葉にすることが出来なくなってしまうのだ。




布団に包まり、強く目を瞑る。 再度眠りの世界に飛び込もうと思えば思うほど、 脳が覚醒してしまっているような…。






───と、その時だった。





「っ、」





突如鼓膜に届いたキィ、という音に布団の中にある肩が飛び上がる。


息を殺して寝ているふりをしていれば、瞼の向こう側で誰かが此方を覗き込んでいる気配がする。







「遅くなってごめんね。おやすみ」







大好きな声。 柔に耳朶を撫ぜた心地良い台詞に胸をときめかせるのも束の間、次の瞬間に額に落とされた唇の感触に思わず目を見開いた。






「あれ、起こしちゃった?」


「ううん…寝られなくて」


「じゃあ添い寝したげよっか」







悪戯に細められた眸。思わずむすりと頬を膨らませた私は、 思ってもいない事ばかりを口にする。






「酒臭いからいい」


「またまた。寂しかったんでしょ?」


「そんなんじゃねーし!」







顔を真っ赤にしてそっぽを向いている時点で肯定している様なものだろうに。


鼻息荒く彼に背を向けて布団に潜り込む。 けれどそんな些細な抵抗も虚しく、するりとベッドに入り込んだ彼の痩躯にすぐに捕まった。






「もー、素直じゃないなぁ」







くすりと笑んだ声が頭上から落ちてくる。


温かな温度とずっと求めていた彼の登場に、 何処かに置いてきていた筈の眠気が今度こそ私の瞼を下ろし始めていて。






「おやすみ」






少し前まではあんなに暗い気持ちだったのに。


彼一人の力でこんなにも安心してしまうのだから、 恋というのは本当に不思議なものである。










その声でおやすみと言って

恋焦がれて眠れぬ夜、ありませんか?